「3億円事件」発生から50年

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この12月10日をもって、あの「3億円事件」の発生から50年が経つ。いわずと知れた昭和史に残る迷宮事件だが、捜査を主導した刑事をして「あれを犯人だと思わないやつは、刑事じゃない」と言わしめた“容疑者”がいた。週刊新潮では2015年刊行の別冊号で、極秘捜査の舞台裏に光を当てた特集を掲載している(以下は別冊『「黄金の昭和」探訪』掲載時のもの)。

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 愁いを帯びた切れ長の目。すっと通った鼻筋。面長で色白の顔……。かつてこれほど、数多の人間の好奇の目に晒された面相があっただろうか。昭和40年代、その人相は社会に最も強烈な印象を植え付けた。モンタージュ写真として公表された、3億円事件の実行犯の容貌である。

警察が公表したモンタージュ写真

「犯人は盗んだ車やオートバイを操り、巧みな運転でまんまと3億円を強奪した。だから私は最初から、“自動車やバイクを乗り回せて、窃盗の犯罪歴のある奴を探せ。免許の有無なんて関係ない。多摩地区に土地鑑があり、これに該当する素行不良者を徹底的に調べれば、ホシは必ず挙がる”と言い続けたんです」

 事件は昭和43年(1968)12月10日に発生した。当時、警視庁刑事部捜査一課で第七係長を務め、多くの殺人事件の捜査を手がけてきた鈴木公一・元主任警部。すでに多くの同僚が鬼籍に入っている。事件から50年近い歳月を経て、重い口を開いた彼の言葉には、今もなお無念の思いが滲んでいた。

 発生直後から府中警察署の特捜本部に入った彼は、すぐにある少年に着目したという。事件2日後、少年の自宅のある国分寺市を管轄する小金井警察署から、

〈傷害等の検挙歴のある少年がおり、普通自動車と自動二輪(オートバイ)の免許を持っている。父親が交通機動隊員(白バイ隊員)で、白バイにも詳しい〉

偽装白バイで現金輸送車を追跡(※写真はイメージ)

 という「注意報告」が特捜本部に寄せられたのだ。

自死した少年

 同じ頃、鈴木元主任警部の配下の刑事も、聞き込み捜査で同様の情報を得ていた。19歳の少年・佐伯徹(仮名)は、車やバイクの窃盗を繰り返す、立川グループという地元の不良グループのメンバーで、恐喝や傷害で何度も逮捕されていた。事件の年の9月、少年鑑別所から別の矯正施設に移送される途中、脱走。その後も、国立市内で傷害事件を起こし、逮捕状が出ていた。

「不良を探すという私の捜査方針を、捜査一課長だった浜崎仁さんは是としてくれました。そんな中で、佐伯少年が、重要参考人として浮上したわけです」(同)

 12月14日、鈴木元主任警部が率いる「佐伯少年捜査班」は、少年が自宅に潜伏していると踏み、佐伯宅への張り込みを始めた。

「同じ日、私は、立川署や小金井署など、現場周辺の第八方面本部の各所轄の刑事課長を集めた会議で“逮捕状が出ているようだが、所轄はこの少年に手を出さないでほしい”と要請した。しかし、それが周知徹底されていなかったんだ」(同)

 不測の事態が発生するのはこの翌日、15日のことだ。傷害容疑で逮捕状を取っていた立川警察署の刑事たちが佐伯宅を訪問してしまったのだ。この時、父親は仕事で不在。応対した母親に、刑事たちは、息子がいるかどうか尋ねた。少年の部屋からレコードをかける音が聞こえており、彼がいることは間違いない。しかし、母親は「息子はいません」と、答えている。そのまま立川署の刑事らは引き揚げた。

「父親が帰宅したその日の夜、父子が大喧嘩する声が近所で聞かれています」(元捜査一課の刑事)

 そして深夜、突如、佐伯少年は青酸カリを飲み、自死を遂げてしまったのである。特捜本部の刑事たちが受けた衝撃は凄まじかった。

現金輸送車襲撃への執着

 ここで、3億円事件の犯人の鮮やかな手口を振り返っておきたい。昭和43年12月10日、降りしきる雨の中、日本信託銀行国分寺支店から東芝府中工場に向け、現金輸送車が出発したのは午前9時15分のことだった。その様子を、カローラに乗った犯人は、輸送車の前方を走る形で観察。下見通りに、いつものコースを走ることを確認すると、あらかじめ、偽装白バイを停めていた府中刑務所近くの空き地に急いだ。そこで白バイに乗り換え、輸送車を追跡。そして高い塀が続く刑務所脇の路上で、輸送車を停車させた。

「今、巣鴨署より緊急連絡が入りました。そちらの巣鴨支店長の自宅が爆破された。この車にも爆弾がしかけられているという情報があるので調べさせてもらう」

 犯人はそう言って、運転手や行員ら4人を降車させ、車の下に潜り込んだ。そして発煙筒をたくや、

「あったぞ。ダイナマイトだ! 下がれ」

 と叫んで、4人を退避させ、そのまま車ごと3億円を強奪したのである。午前9時21分のことだった。

 シナリオ通りに事を運ぶため、犯人は伏線を張っていた。爆破話を行員らが信じ込むよう、事件直前の12月6日、同銀行支店に、〈300万円払え。従わなければ、支店長宅をダイナマイトで爆破する〉という脅迫状を送っていたのだ。

 その後、犯人は事件現場から700メートル北側にある国分寺史跡の空き地に直行。そこで現金の入ったジュラルミンケースを引っ張り出し、停めてあった別のカローラに積み替えて、逃走した。ちなみにこれらのカローラやバイクはいずれも盗難車である。それから、犯人は小金井市の本町団地の駐車場に向かい、カローラを放置。現金を持ち去り、そのまま迷宮の彼方に消え去ったのである。

 以後、時効までの7年間に、警視庁の威信をかけた捜査が展開された。最大時、約200人いた捜査本部では、7~8つの班が編成された。その中に、佐伯少年の死後も、彼の内偵を行う特命捜査班が維持されていた。佐伯少年が、最重要“容疑者”としてそこまで疑われたのは何故なのか。

 長年、事件を追い続けてきたジャーナリストの近藤昭二氏が解説する。

「少年が亡くなった直後、小金井署の捜査員に混じって、特捜本部の刑事たちも彼の部屋に飛び込みました。実はこの時、捜査員に紛れて、現金輸送車の銀行員らも部屋に入り、少年の顔を面通しで確認しているのです。すると、4人とも“よく似ている”と言った」

 特に犯人と言葉を交わした運転手は、「体全体のやせ具合がよく似ている。パーセンテージで表すと、95%。眉も生え際が似ており、90%」などと証言していた。

 少年については、さらに瞠目に値する情報があった。

「立川グループの少年の仲間を洗った捜査員が、周辺から重大な証言を掴んでいました。“事件前、(佐伯)徹ら4人が、府中市の明星高校の教職員の給与を運ぶ現金輸送車を襲う計画を立てていた”というのです。明星高校は、少年が2年時に中退するまで通った母校。その後、標的が立川バスというバス会社の職員の給与に変わったことも判明した。いずれにせよ、現金輸送車襲撃の謀議ですよ。私も実際、当時の少年の恋人を探し当て、重大証言を直接、聞くことができた。“事件直前の11月、私の部屋に来た彼が、現金輸送車襲撃計画を仲間と相談していた”という話でした」(同)

 少年が現金輸送車襲撃に固執していたことが窺える。

「しかも捜査員は、やはり仲間から、“事件の3カ月前、徹が『東芝か日立の現金輸送車を襲えば、1人300万円くらいにはなる』と話していた”という供述を得ていた。本人の口から3億円事件の被害者である東芝の名がターゲットとして出ていたのです」(同)

 他にも佐伯少年が疑われた理由はたくさんある。主だった根拠を列挙すると、

・車やバイク窃盗の常習者である少年ら立川グループの盗みの手口は、三角窓を破り、車の配線をエンジンに直結させて動かすものだったが、事件に使われたカローラも同手法で盗まれていた

・犯行に使われたオートバイとカローラ2台が盗まれた日のアリバイがいずれもなかった。また3億円事件時のアリバイも、家族の証言だけで、信頼性は薄い

・オートバイ、カローラ2台はいずれも日野市内で盗まれているが、当時、少年も日野市内にアパートを借りて隠れ家にしていた

名刑事「平塚八兵衛」再び

 もっとも、決定的な決め手は見つけられないでいた。昭和44年、捜査一課長が浜崎仁から武藤三男に代わった。武藤は当時、あの「吉展ちゃん事件」の解決で名をあげた伝説の鬼刑事、平塚八兵衛を特捜本部に呼び寄せ、少年のシロクロの評価に決着をつける特命を与えた。結果、平塚が下した判断は“シロ”だった。

「まず八兵衛は、3億円事件は単独犯だと判断した。犯行の決行日に、実行犯はカローラ、白バイ、現金輸送車、カローラと、曲芸師のように次々と別の車両に飛び移っている。複数犯なら、こんな余裕のない危険な計画は立てない、というのが最大の根拠でした」

 とは、当時の捜査幹部。

「そのうえで、少年はシロと判定された。3億円事件が起こる8カ月前から、多磨農協や多磨駐在所に次々と脅迫状が送りつけられる事件が発生していた。一連の脅迫状と後に送られた日本信託銀行への脅迫状の筆跡が一致。特捜本部では、3億円事件と同一犯と断定していた。この駐在所への脅迫状の切手についていた唾液の血液型がB型で、A型の少年とは合わなかったんです。また、その投函日に少年は練馬鑑別所に収容されていたことも分かった。八兵衛は“これ以上のアリバイはない”と得意げだった」

 なるほど確かにその通りだ。しかし、それはあくまで単独犯という前提に立って、初めて成り立つ判断である。かりに複数犯であれば、この主張は崩れる。

「あの早い時点で、単独犯と断定してしまったのは失敗だったと思う。彼の判断が本部の公式見解となってしまい、佐伯少年の線はこの段階で消されてしまった」

 と、別の幹部。昭和47年からは、平塚が捜査責任者として現場の指揮を執ることになった。過労で肝臓病を患い、2~3年で特捜本部から外れた鈴木元主任警部は慨嘆する。

「単数でも複数でも、実行犯は1人。そいつを捕まえれば、後は自然とついてくる。私は、窃盗の線で暴走族などを中心に捜査しなければダメだと言っていた。その意味でも、本来なら少年は消せなかったんです」

 特捜本部では、少年の名前を出すことすらタブーになってしまったという。もっとも、そんな捜査も実は最終局面では、密かに軌道修正されていた。

佐伯少年の友人

 時効まで残り5カ月ほどとなった昭和50年7月。土田国保・警視総監と鈴木貞敏・刑事部長は特捜本部に対し、「佐伯少年とその周辺関係者」を巡る再捜査徹底の特別命令を下した。現場に燻る疑念や不満を汲み取った上での指示である。すでに、平塚は引退していた。

「最後の捜査の主たる対象は、むろん、立川グループでした。その中で、事件後、急に金回りが良くなった人物が浮上した。青田正(仮名)=事件当時18歳=という男で、やはり車の窃盗常習者です。しかも佐伯少年とは親密な友人関係にあった」

 と、ある元警部補。

「青田の家は貧しく、父親は病気で入院していた。本人も定職がなく、スナックを経営する母親にしょっちゅうカネを無心していた。それが事件翌年、喫茶店を開き、不動産会社を設立。昭和50年当時は、六本木に事務所を構えて株の仕手戦を手がけており、家賃が10万円以上もする代々木の外交官が住む家具付きマンションが自宅だった。何百万円もするムスタングやコルベットなどの高級外車を次々と乗り回し、ハワイの高級別荘まで購入していました。我々の間では“最後の容疑者”と呼ばれていた」

 警視庁が青田を別件の恐喝容疑で逮捕し、最後の大勝負を賭けたのは、時効まであと25日となった11月15日のことだった。青田の取調べ状況を知る元刑事が述懐する。

「事件のあった時期以降、青田が動かしたカネは1億円近くになっていた。裏取りした結果、43~46年当時のカネが問題とされた。その間、彼は母親に750万円を渡していた。しかも事件の年の暮れに、友人に新聞紙に包んだ現金数百万円を貸していることも判明したんです。こうしたカネの出所を集中的に調べました」

 青田は、母親に渡したのは、家と喫茶店を売ったカネだと説明したが、時期や金額が合わない。友人に貸したカネの出所についても、秩父の知り合いから借りたものとしたが、警察がその人物に確認すると、嘘だということが判明した。

〈死ぬというのは美しい――〉

「取調室では激しい攻防が続きました。しかし不測の事態が生じた。おかしな点を追及していると、彼が突然、ウワーと叫び、机や床に頭を打ちつけ始めたんです。調べ官が“出所を説明しろ”と更に迫ると“言えない”とだけ答え、また頭をぶつけ始めた。“なぜそんな苦しい思いをする。カネの出所を説明すれば済むだけのことだろう”と叱責したが、それには答えず、自傷行為を繰り返しました。自殺を図ろうとしているようなものです。マスコミに漏れたら、大変な問題になる。聴取にならず、時効の問題もあり、上層部の判断で取り調べは打ち切られました。結局、怪しいカネの出所ははっきりしないまま終わった。時間がなかったのが残念です。奴が犯人の1人で間違いない。もう少しで逃げ切れるので、必死にあんなマネをしたのでしょう」

 12月4日、青田は釈放された。10日が時効成立の日だったが、事実上、このときが3億円事件の迷宮入りが決定した瞬間だった。

 先の捜査幹部が、改めて佐伯少年について振り返る。

「彼は“サツズレ”していて、警察が来たくらいで死ぬタマではない。普通なら自殺する理由がないんです」

 昭和43年12月15日の夜、少年は父親と激しい口論となり、その後、謎の自殺を遂げた。彼は可愛がっていた妹宛てに便箋2通の遺書を残していたが、実はもう1通、別人の遺書が、部屋から発見されていた。彼の母親が書いたもので、〈私の遺骨は実家の墓に入れて下さい〉とあった。

「2人の遺書について、特捜本部の刑事が母親に質すと、“息子が便箋がほしいと言うので渡したが、まさか遺書を書くためとは思わなかった。私の遺書はずっと以前に書いたもの。息子を巡って以前から夫婦仲が悪く、死のうと思ったことがあった。遺書はその時のもので、便箋の中に挟んだまま、捨てるのを忘れていた”と苦しい釈明に終始しました。捜査員の多くが、“少年が、激怒する父親に3億円事件の犯行を告白し、両親は一家の将来を絶望した。母親は息子に『一緒に死のう』と諭した。しかし死んだのは少年だけだった”と思ったのも無理からぬことです。現場となった少年の部屋にはコップが2つあり、1つからは青酸カリの反応が出たが、もう1つからは何も出なかった」(同)

 少年の遺書には、概要こう記されていた。

〈死ぬというのは美しい。この世は醜悪だ。父も母も世間体ばかり考え、虚栄心だけで生きている〉

 最後に、鈴木元主任警部は捜査をこう顧みた。

「私は、“捜査は広げ過ぎてはいけない”“ツボを押さえた捜査をすれば、絶対、ホシにつながる”と上層部に意見したが、聞き入れてもらえなかった。それを徹底していれば、必ず犯人に行き着いたはずなんだ。本当に悔しいね。私は、今でもあの少年が真犯人だったと思っています。そう思わなきゃ、刑事じゃないよ」

 静かな語り口だが、細い金縁眼鏡の奥の眼光には、未だ刑事としての矜持が宿っているように見えた。

 

引用元

http://news.livedoor.com/article/detail/15721859/

3億円事件当時は生きてないですね。

いまこれが出来るかと言ったら難しいでしょう。