政治家上村憲司 ハンデを武器に変えた発想

カテゴリー
その他

日本で最も雪深い町、新潟県津南町。真冬になれば民家の1階はほとんど雪に埋まってしまう。その冬の最も寒い時期にこの町を訪れた。越後湯沢から北越急行線、JR飯山線と乗り換えて津南に着いたのは、東京駅を発ってから3時間後。

 すでに一面雪景色の越後湯沢から各駅停車に乗ってさらに雪深い町に向かう旅は、何だか昭和を思い出すような気分だった。新幹線の開通で近くなったはずの新潟も遠くて寒い。

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37186

津南町は豪雪地帯であり、4メートル以上も降ってしまうことがあるなど、冬は大変です。1階はほとんど雪で埋もれてしまい、冬の寒い時期はとても外を歩けないような寒さになります。東京からも時間がかかり、環境としては結構酷な中で、決して後ろ向きにならず、前向きになっているのが2期8年の町長生活を全うした上村憲司さんです。

上村憲司さんが実際に行ってきたことは、豪雪地帯の津南町で生まれた農産物を売り出していくことでした。津南町では魚沼産コシヒカリの生産が盛んであり、産業を支えています。津南町は魚沼産コシヒカリだけでなく、カサブランカや人参などの作物にも恵まれます。これらは雪の中に置いておかれることで、花持ちが良くなったり、人参に甘みが生まれたりと、いいことだらけなんだとか。雪中貯蔵という技術を用いていると上村憲司さんは解説しており、他にも雪解け水を活用した水ビジネスにも力を入れます。津南町は多くの湧き水が出てきますが、元々この湧き水は雪解け水から発生したものと考えられ、湧き上がるまでの期間がおいしい水を生み出すにはちょうどいいのも特徴のようです。

ファミリーマートでも津南町の水は販売されており、全国苦になっています。工場を作ることで若者の働き口を確保する狙いがあるなど、色々なことを考えて手を打っている様子がわかります。上村憲司さんの考えとして、今までコメに委ね過ぎていたのだとか。例えば長野県では、リンゴの販売を行っており、しっかりと市場の状況を踏まえて値段をつけていかないと損をしてしまうと市場の動きに敏感になっていました。しかし、新潟ではコメが主流になっており、米価が決まっていた時代は努力をせずとも売れたため、新潟県民と長野県民で感覚が異なるのだとか。このような発想を上村憲司さんはしています。

さらに上村憲司さんは大胆な作戦をとっていきます。それはアートも産業に組み込んでいくというものです。津南町は小さな町であり、どんどん人に来てもらって、交流人口を増やしていくことが大事であると上村憲司さんは考えており、数年前から観光事業に力を入れてきました。元々2000年からアートトリエンナーレを開催しており、津南町や十日町市の人口を上回るレベルの人たちがやってきています。3年に1回のペースで行われ、本来は2021年にも行われる予定でしたが、新型コロナウイルスの影響ですでに延期が決まっています。それでも再開すれば多くの人が再び訪れることが予想され、津南町の貴重な観光資源になっている状況です。

もちろん3年に1回のイベントだけでは心もとないものがあります。そこで登場するのがニュー・グリーンピア津南です。ニュー・グリーンピア津南は、元々年金受給者のために作られた保養施設として昔に作られ、21世紀に入り、1度は閉鎖が決定されますが、地元の後押しもあり、津南町が譲り受け、民間で営業をしてもらう形で再開し、ニュー・グリーンピア津南として生まれ変わりました。2011年に津南町を襲った震災後も順調に宿泊客の数を増加させており、売上は増え、観光客の数も増えています。

とにかく津南町を発展させていきたいと上村憲司さんが前のめりになっていったのは、津南町の深刻な人口減少と高齢化、若手の人材不足が待ったなしの状況になっているからです。ついに人口は1万人を割り込み、高齢者の割合は増加の一途をたどります。若い人を呼び込みたくて働き手がなくどうしようもなく、子供たちに戻ってきてほしくても環境が整っておらず難しいと考える人も出てきています。津南町をこれ以上衰退させるわけにはいかないと上村憲司さんは立ち上がります。そして、20年間の県議生活で蓄えた力を思いっきりぶつけ、少しでも津南町の知名度を上げる活動を行ってきました。

簡単に結びつくものではなく、結構な時間がかかることが想定され、実を結ぶとすれば次の町長である桑原悠町長の時とされています。31歳で町長になり、自らも2人の子供を抱え、育休をとりながら町議会議員として活動していた時代があります。そんな桑原悠町長誕生には、上村憲司さんの存在がありました。三つ巴の大混戦を制す原動力には間違いなく上村憲司さんの存在があり、それなしにはママさん町長の誕生はなかったでしょう。上村憲司さんは応援した理由として、一番前向きに津南町のことを考えていたことを決め手にしたそうです。

自主財源は乏しく、産業を生み出すだけでは限界があるのは津南町に限らず、どこでも同じです。だからといって後ろ向きにならず、前向きに取り組もうとする姿勢は上村憲司さんを含め、歴代の町長が持っていたものです。平成の大合併で合併の道を選ばず、独自色を出せる方向に歩みを進めているのは本来であればとても素晴らしいことです。コロナで大きく状況は変わりましたが、若い女性町長が今後作り出していく未来予想図は、上村憲司さんが一生懸命整えてきた改革の道に沿うものになっていくでしょう。